症例設定
【患者】
- 58歳男性.168cm,95kg(BMI33.7)
【現病歴】
- 3ヶ月前から便秘と下血を自覚.大腸内視鏡検査で直腸Rs部に2cm大の腫瘍を認め,生検でadenocarcinomaと診断.術前化学放射線療法は行わず,腹腔鏡下低位前方切除術の方針となった.
【既往歴】
- 高血圧症(10年前から)
- 2型糖尿病(5年前から)
- 睡眠時無呼吸症候群(3年前診断,CPAP使用中)
- 脂質異常症
- 虚血性心疾患(2年前に前下行枝に薬剤溶出性ステント留置)
【服用中薬剤】
- アムロジピン 5mg 1回/日
- メトホルミン 500mg 2回/日
- ロスバスタチン 2.5mg 1回/日
- アスピリン 100mg 1回/日
- クロピドグレル 75mg 1回/日(7日前から中止)
- ランソプラゾール 15mg 1回/日
【主な検査所見・バイタルサインなど】
バイタルサイン:血圧 148/88mmHg,心拍数 82/分,SpO₂ 95%(室内気),体温 36.5℃,呼吸数 16/分
血液検査
- Hb 13.8 g/dL,Plt 22.5万/μL
- PT-INR 1.05,APTT 29秒
- AST 32 U/L,ALT 38 U/L,γ-GTP 65 U/L
- BUN 15 mg/dL,Cr 0.8 mg/dL,eGFR 72 mL/min/1.73m²
- Na 140 mEq/L,K 4.2 mEq/L,Cl 105 mEq/L
- Glu 145 mg/dL,HbA1c 7.2%
- CRP 0.3 mg/dL
画像所見など
- 心電図:洞調律,左室肥大所見あり,V3-V5で陳旧性前壁中隔梗塞を示唆するQ波
- 胸部X線:CTR 52%,肺野に異常なし
- 呼吸機能検査:FVC 3.2L(80%),FEV1.0 2.4L(75%),FEV1.0% 75%
- 心エコー:EF 55%,前壁中隔の壁運動低下あり,弁膜症なし,左室肥大あり
- 運動負荷心電図:4METsで虚血所見なし
- 気道評価:Mallampati分類 III度,開口3横指,頸部伸展制限なし
- 睡眠時無呼吸検査:AHI 25/時間(中等度),最低SpO₂ 85%
- 腹部CT:直腸Rs部に造影効果のある壁肥厚あり,明らかなリンパ節転移や遠隔転移なし
Q1. 本症例の術前評価で特に注意すべき点は何ですか?各リスク因子に対する対策を挙げてください.
- 虚血性心疾患(PCI後):
- 周術期心筋虚血リスク評価(運動耐容能,ステント留置時期の確認)
- 抗血小板薬管理(アスピリン継続,クロピドグレルは中止)
- 術中心筋虚血モニタリング(心電図,経食道心エコー検討)
- 術中の頻脈・低血圧予防,適切な酸素化
- 肥満(BMI 33.7):
- 気道確保困難のリスク評価(Mallampati III度)
- 術中の適切な換気.特にこの手術はかなりの頭低位にするため(PCV管理,高めのPEEP)
- 末梢静脈路確保困難の可能性.複数確保しておく.難しければエコー使用.
- 睡眠時無呼吸症候群(AHI 25/時間):
- 周術期気道閉塞リスク増加
- 抜管後の呼吸状態に注意
- 術後オピオイド使用と呼吸抑制に要注意
- 術後はCPAPをすぐ再開
- 糖尿病(HbA1c 7.2%):
- 術中血糖管理(目標値140〜180mg/dL).低血糖・高血糖の予防のため,定期的な血糖測定とインスリンの投与調整を行います.
- 末梢神経障害の有無確認(神経ブロック合併症リスク)
- 自律神経障害の評価(血圧変動リスク)
- (高血圧症)
- 術前血圧コントロール評価(148/88mmHg:やや高値)
- 導入時血圧変動への対策
Q2. 本症例における麻酔法選択について,硬膜外麻酔を行わない理由と,代替の術後鎮痛法およびその根拠を説明してください.
硬膜外麻酔を行わない理由:
- 抗血小板薬(アスピリン)継続中であり,硬膜外血腫リスクが増加(単独であれば可ではあるけど,無理することはない)
- ステント留置後2年以内であり,全ての抗血小板薬中止は血栓リスク増加
- 米国区域麻酔学会(ASRA)ガイドラインでは,アスピリン単剤でも硬膜外麻酔はリスク・ベネフィットを慎重に検討すべきとされている.
- 肥満患者では技術的困難と合併症リスク増加の可能性
- 低分子ヘパリン等の周術期血栓予防薬使用が予想される場合,カテーテル抜去時期の調整が複雑化
代替術後鎮痛法:
- 末梢神経ブロック(TAP block):
- 腹部手術の体性痛に有効(いまいちのこともあるけど)
- 抗血小板薬継続下でも基本的に施行可能
- 超音波ガイド下で正確な薬液注入が可能(肥満でも)
- 単回注射のため,カテーテル関連合併症がない
- IV-PCA(フェンタニル):
- 内臓痛に対応可能
- 患者自己調節が可能
- 睡眠時無呼吸に対する注意は必要
- 中止後の効果消失が比較的速やか
- マルチモーダル鎮痛補助:
- アセトアミノフェンやNSAIDs定時投与
- 非オピオイド鎮痛薬優先によるオピオイド減量
補足・解説
- 近年のERASプロトコルでは,硬膜外麻酔が禁忌の場合のTAP blockとIV-PCA併用の有効性が示されている
- TAP blockは大腸手術後の鎮痛効果が複数のRCTで示されている
- 肥満・睡眠時無呼吸患者では,局所麻酔薬主体の鎮痛がオピオイド関連呼吸抑制リスクを低減する
- 腹腔鏡手術は開腹手術より術後疼痛が軽度のため,本アプローチで適切な鎮痛が期待できる
Q3. 腹腔鏡下手術における気腹の生理学的影響と頭低位の影響について,特に本症例における注意点と麻酔管理上の対策を説明してください.
呼吸器系への影響:
- 横隔膜挙上による機能的残気量減少と肺コンプライアンス低下
- 気道内圧上昇,血液ガス変化(CO₂吸収によるPaCO₂上昇)
- 本症例では急峻な頭低位をとるため,影響が顕著に出る可能性が高いです.
- 無気肺の形成リスク,低酸素血症
- 対策:
- 従圧式の場合はコンプライアンス低下による低換気に,従量式の場合は気腹と頭低位・腹部内臓の圧迫による気道内圧上昇に注意.
- 適切なPEEP設定(5〜10cmH₂O)
- 定期的な血液ガス分析によるPaCO₂モニタリング
- 肺リクルートメントの定期的実施
循環器系への影響:
- 腹腔内圧上昇による静脈還流減少
- カテコラミン分泌による一過性の心拍数・血圧上昇.虚血性心疾患患者では心筋酸素需要増加のリスク
- 頭低位による前負荷増加と心臓への圧迫
- 対策:
- 適切な輸液負荷
- 気腹圧の最小化(通常10〜12mmHg以下).でも肥満だから厳しい.十分な筋弛緩も必要.
- 必要に応じた血管作動薬の準備
- 観血的動脈圧モニタリング
- 虚血性心疾患患者では心筋酸素需給バランスモニタリング
- ニトログリセリンやニコランジル等の冠拡張薬使用
神経系・皮膚への影響:
- 砕石位・頭低位での末梢神経障害リスク(腓骨神経,大腿神経,腕神経叢,上肢の神経など)
- 両手を巻き込むことが多いため,マジックベッドやラインによる圧迫,肩支持器などによる圧迫にも注意
- 肥満患者では体位固定が困難で神経圧迫リスク増加,ずれ注意
- 頭蓋内圧上昇リスク
- 対策:
- 適切なパッドによる圧迫予防
- 手術時間延長時の一時的体位調整検討
- 確実な固定と定期的なチェック
腎機能への影響:
- 腎血流減少,抗利尿ホルモン分泌増加
- 尿量減少
- 対策:
- 適切な輸液管理
- 尿量モニタリング
- 長時間手術での一時的な気腹解除の検討
その他の影響:
- CO₂塞栓のリスク
- 皮下気腫形成の可能性
- 対策:
- 経食道心エコー(適応あれば)
- 皮下気腫の拡大がある場合,気腹圧・換気条件の適宜調整
⏩【経過】
- 手術は無事進行し,小開腹のため体位を頭低位から仰臥位に戻したところ,血圧が低下し,モニター心電図でST低下が認められます.
🖥️【仰臥位に戻した際のバイタルサイン変化】
体位変換前(急峻な頭低位)
- BP: 135/80mmHg
- HR: 75/分
- SpO₂: 98%(FiO₂ 0.5)
- EtCO₂: 38mmHg
体位変換後(仰臥位)
- BP: 80/45mmHg
- HR: 88/分
- SpO₂: 97%(FiO₂ 0.5)
- EtCO₂: 25mmHg
- CVP: 5mmHg
- II誘導でST低下(-2mm)
Q4. どのような病態を考え,どう対処しますか?
考えられる病態:
- 下肢血管床への血液再灌流による相対的血液量減少(静脈還流量低下),重力による後負荷減少の影響
- 頭低位解除による前負荷減少(EtCO₂の減少は心拍出量低下を示唆)
- 心筋虚血の発生(ST低下)による心収縮力低下
- 予期せぬ出血
- 肺塞栓の可能性(特に長時間の砕石位後)
初期対応:
- 急速輸液と血管収縮薬投与で経過観察
- 出血の可能性は低いと思われますが,疑うなら一応確認
- ETCO₂の低下で肺塞栓を疑うのであれば経食道心エコー(ついでに壁運動異常も確認).
Q5. 術後に超音波ガイド下でTAPブロックを行いました.合併症および肥満患者での技術的課題と対策について説明してください.
肥満患者での技術的課題:
- 皮下脂肪層の厚さによる超音波画像の劣化
- 筋層間の識別困難性
- 必要針長の増加(通常50-80mm→100-150mm必要な場合も)
- 適切な薬液量の決定困難(体重補正問題) など
合併症と予防策:
- 腹腔内臓器損傷:
- 常に針先の視認確保
- 穿刺深度の慎重な調整
- 局所麻酔薬中毒:
- 総投与量制限(体重あたり計算)
- 血管内注入回避(頻回吸引確認)
- ブロック不十分(合併症ではないけど)
- 薬液拡散の超音波確認
- 必要に応じ多部位注入(上方・下方TAP)
⏩【経過】
- ブロック後に覚醒を確認し抜管しましたが,数分後から多弁となり,意識消失.不整脈が出現しています.
Q6. 何が考えられますか?対処とともに説明してください.
- TAPブロックによる局所麻酔薬中毒が考えられます.
- まずは看護師さんに応援連絡を頼みつつ,100%酸素を投与.痙攣時はミダゾラムなどのベンゾジアゼピン系麻酔薬を痙攣が止まるまで投与します.必要に応じて気管挿管等の気道確保を行います.
- 循環虚脱を認めた場合は輸液は全開で,カテコラミンなど各種陽性変力・変時薬を使ってバイタルの安定を目指します.pulseless VTやVfなどの致死的不整脈や心停止を生じた場合はACLSに準じた心肺蘇生を行います.
- 脂肪乳剤は20%製剤で初回1.5mL/kgをボーラス投与後,15mL/kg/時で持続投与を開始します.効果が不十分な場合,3〜5分毎に初回量を追加し,総投与量は10mL/kgを上限とします.
Q7. 局所麻酔薬中毒を防止するためにはどのような方法がとられますか?
- アドレナリン添加(血管収縮と吸収遅延),適切な濃度・用量の遵守が重要です.
- 手技面においては,超音波ガイド下での穿刺(血管位置の確認),吸引テスト,少量ずつ分割投与を行います.
Q8. 術後の急変に対して家族に説明を行ってください.
- 麻酔科医のさらりーまんです.⚫⚫様の手術自体は無事に終了しております.しかし,術後の痛み止めの処置の際に合併症が生じたため,現在ICUで慎重に経過観察をしている状況です.
- 具体的には,手術後の痛みを和らげるために「TAPブロック」という神経ブロック注射を行ったのですが,その際に使用した局所麻酔薬の一部が血管の中にに入ってしまい,「局所麻酔薬中毒」という状態になりました.
- 症状としては,一時的に意識レベルの低下と痙攣が見られたため,安全のために再度気管挿管を行い,その他適切な処置を行った上でICUでの管理としました.現在は循環動態は安定しており,重篤な状態ではありませんが,慎重な観察が必要な状態です.
- このような合併症は,特に肥満のある患者さんでは薬剤の広がり方や吸収のされ方が変わることがあり,十分注意して行っておりますが,予測が難しい場合があります.
- 現在の治療としては,局所麻酔薬の体内からの排出を促すための点滴と,症状に応じた対症療法を行っています.通常,この状態からの完全な回復は24〜48時間程度かかりますので、その間はICUで慎重に経過を見させていただきます.
- 何かご質問はありますか?ご心配なことがあれば遠慮なくお尋ねください.状態が変わるようなことがありましたらすぐにご連絡いたします.
⏩【経過】
- 幸い重篤な状態にはならず,翌日無事抜管しましたが,腹部の疼痛を訴えています.
Q9. 疼痛に対してどのように対応しますか?
- まずは,創部のみの痛みなのか,腹部全体の痛み(内臓痛など)なのかの確認が必要です.
- ドレーン排液の性状(混濁や異臭の有無など)を確認し,縫合不全や術後感染症の兆候がないか評価します
- 単純に創部痛であれば,IV-PCAを行っていなければ開始,行っていれば基礎投与量の増量(基礎投与量なしであれば開始),フラッシュ量の増量などを設定します.
- また,定時でNSAIDsやアセトアミノフェンの投与も行います.