症例設定
【患者】
- 78歳男性.165cm,56kg(BMI20.6)
【現病歴】
- 定期健診の胸部X線で大動脈拡大を指摘され,精査目的で撮影された造影CTにて,遠位弓部から下行大動脈にかけて最大径60mmの嚢状動脈瘤と,Adamkiewicz動脈起始部に近接する部位に壁在血栓を認めた.明日,待機的TEVAR手術が予定されている.脊髄虚血リスク軽減のため,昨日,腰部脳脊髄液(CSF)ドレナージが施行された.
【既往歴】
- 高血圧症(20年前から)
- 冠動脈疾患(5年前にPCI施行,右冠動脈#2にステント留置)
- 慢性腎臓病(CKD stage G3a,eGFR 45 mL/min/1.73m²)
- 2型糖尿病(15年前から)
- 腰部脊柱管狭窄症(3年前から保存的治療中)
【服用中薬剤】
- アムロジピン 5mg/日
- カンデサルタン 8mg/日
- メトホルミン 500mg/日
- アスピリン 100mg/日(術前7日前から中止)
- クロピドグレル 75mg/日(術前7日前から中止)
- ロスバスタチン 2.5mg/日
【主な検査所見・バイタルサインなど】
血液検査
- WBC 6,800/μL, RBC 412×10⁴/μL, Hb 13.2 g/dL, Ht 39.1%, Plt 19.2×10⁴/μL, 生化学:
- AST 25 IU/L, ALT 22 IU/L, TP 6.9 g/dL, Alb 4.0 g/dL
- BUN 22 mg/dL, Cr 1.35 mg/dL, eGFR 45 mL/min/1.73m²
- Na 140 mEq/L, K 4.3 mEq/L, Cl 105 mEq/L
- Glu 128 mg/dL, HbA1c 6.7%
- PT-INR 1.08, APTT 32.5秒, Fib 325 mg/dL, D-dimer 0.8 μg/mL
- 血液ガス(room air):pH 7.40, PaCO₂ 40 mmHg, PaO₂ 85 mmHg, HCO₃⁻ 24.0 mEq/L, BE -0.5 mEq/L, SaO₂ 96%
画像検査など
- 心電図: 洞調律,心拍数65/分,左室肥大所見
- 胸部X線: 心胸郭比 52%,肺野清,大動脈弓部拡大所見
- スパイロメトリ:VC 3.25L(%VC 85%), FEV₁ 2.28L(%FEV₁ 80%), FEV₁/FVC 70%
- 心エコー: 左室駆出率 58%,左室肥大所見,局所壁運動異常なし,軽度の大動脈弁閉鎖不全
- 頸動脈エコー: 両側に中等度プラーク形成あり,有意狭窄なし
- Mallampati分類: Class II
搬入時バイタルサイン
- 血圧 142/78 mmHg,心拍数 72/分,SpO₂ 96%(室内気).
Q1. 術中の神経モニタリングを安全かつ有効に行うために,術前に確認すべきポイントを具体的に挙げて説明してください.
- 神経学的評価:術前に下肢の運動機能や感覚機能を詳細に評価します.特に腰部脊柱管狭窄症の既往がある場合は,既存の神経障害の有無を確認しておく必要があります.
- 電極留置部位の確認:刺激電極および記録電極を留置する部位の皮膚状態を評価し,感染や皮膚障害がないことを確認します.
- 末梢神経・血管の評価:下肢の末梢神経障害や末梢血管障害がないかを確認し,モニタリング信号の取得に支障がないことを確認します.
- CSFドレーンの状態確認:術前にCSFドレーン留置部の出血や感染徴候の有無を確認し,ドレーンの機能が正常であることを確認しておきます(搬入後にもう一度確認).
Q2. 本症例における脊髄虚血リスク因子を挙げ,脊髄保護の観点から術前評価の重要ポイントを説明してください.
脊髄虚血リスク因子:
- 解剖学的要因として,Adamkiewicz動脈近傍の動脈瘤と被覆範囲の広さ,遠位弓部から下行大動脈に及ぶ広範囲のステントグラフト留置予定,術中低血圧のリスク(麻酔による影響,心筋虚血による心原性ショックのリスクなど)があります.
術前評価の重要ポイント:
- 画像検査による評価:
- CT/MRIによるAdamkiewicz動脈の同定と位置確認
- 動脈瘤とステントグラフト留置予定範囲の詳細評価
- 閉塞される肋間動脈・腰動脈の数と位置確認
- 側副血行路(内胸動脈,椎骨動脈など)の評価
- 心血管系評価:
- 心機能評価(心エコー):EF 58%と保たれている
- 冠動脈疾患の現状評価(症状,治療状況)
- 降圧薬の評価(術中血圧管理への影響)
- 神経学的評価:
- 脊髄機能のベースライン評価(特に下肢運動・感覚機能)
- 腰部脊柱管狭窄症による脊髄症状の有無
- その他:
- 凝固能評価(抗血小板薬中止の影響)
- 腎機能評価(造影剤使用の影響):eGFR 45mL/min
- 脳脊髄液ドレナージの適応判断と準備状況
脊髄保護方法
- 本症例では高リスク症例と判断し,脊髄保護のための積極的な予防策(CSFドレナージ,MEPモニタリング)を予定しています.
Q3. 本症例で施行された脳脊髄液(CSF)ドレナージの目的,管理方法について説明してください.
目的
- 脊髄灌流圧(SCPP)の改善(灌流圧を上昇させる)のために行います.
- SCPP = 平均動脈圧(MAP)- CSF圧,であるため,CSF圧を低下させることでSCPPを上昇させることができます.
- MEPの低下や,術後の対麻痺の徴候が見られる場合に,ドレナージを行います.
管理方法:
- 挿入は術前日に行います.L3/4またはL4/5椎間から挿入し,くも膜下腔に留置します(挿入時,挿入後,搬入前に適切に流出するかを確認します).
- モニタリング項目としては,CSF圧,排液量,性状を確認します.
- 右房をゼロ点として圧をモニタリングします.
- 術中は脳脊髄圧10mmHg以下(14cmH₂O),脊髄灌流圧60mmHg以上を維持します.
- ドレナージ速度は急激な圧低下を避けるため10〜15mL/h以下に制限します(急性硬膜下血腫や脳ヘルニアのリスク).
- 過度の排液を避ける(1時間あたり15mL以下が目安).総排液量は24時間で150mL以下が目安です.
- 術後は少なくとも術後48時間継続し,神経学的所見に応じて72時間以上継続も検討します.
Q4. 本症例の麻酔管理において,運動誘発電位(MEP)モニタリングを意識した麻酔薬選択について説明してください.
- TIVAを選択します(プロポフォールTCI+レミフェンタニル).
- 吸入麻酔薬はMEPに抑制的に働くため基本的に使用しません.筋弛緩薬や気管挿管時のみ使用します.
Q5. 本症例は腎機能障害(CKD stage G3a)を合併しており,造影剤使用による腎機能悪化リスクがあります.TEVAR周術期における造影剤腎症のリスク評価と,腎保護的麻酔管理について説明してください.
リスクの評価としては,患者リスクと手術・手技によるリスクがあります.
患者側リスク因子:
- CKD(eGFR<60mL/min):基礎疾患として存在
- 糖尿病(15年の罹患歴):腎症リスク増加
- 高齢(74歳):加齢に伴う腎予備能低下
- 心血管疾患の既往:腎灌流障害リスク
手技関連リスク因子:
- 造影剤総使用量:TEVAR時の血管造影に大量使用
- 短期間内の反復使用:術前CT,術中造影の連続使用
- 動脈内投与:血管内治療での直接投与
- 高浸透圧造影剤使用の可能性.
予防のためには,以下の対策をとります.
- 腎血流の維持(脱水の防止,十分な輸液)
- 腎灌流圧の維持(MAP65mmHg以上),尿量の経時的観察
- 低浸透圧〜等浸透圧性造影剤の使用と,使用量を最小限にする,
- NSAIDsなど腎障害リスクのある薬物の使用を控える.
⏩【経過】
- ヘパリン静注後,ATP278秒を確認.大腿動脈からアプローチしました.ステントグラフトを留置後,造影検査でエンドリークがないことを確認しましたが,その25分後,MEP振幅の50%低下を検出しました.
Q6. 術中にMEP振幅が50%低下した場合の初期対応について説明してください.
- 記録電極と刺激電極に問題がないかを確認し,上肢のMEPの振幅を確認します.
- 上肢のMEPに問題がなく,下肢のMEPのみが低下している場合は脊髄虚血が疑われます.血圧や貧血の是正,脳脊髄液ドレナージ等を行います.
- 上肢のMEPの振幅も低下している場合には麻酔薬自体の影響,脳梗塞などが疑われます.
対応
- 外科医への速やかな報告と情報共有 技術的要因の迅速な除外(電極確認,筋弛緩拮抗など) 平均動脈圧上昇(目標:80-90mmHg → 90mmHg以上)
- 輸液負荷(晶質液500mLの急速投与)
- 血管収縮薬開始/増量(ノルアドレナリン0.05-0.1μg/kg/分)
- CSF圧低下:10cmH₂O → 5cmH₂Oへ減圧,20mL程度の排液 などを行います
⏩【経過】
- 上記の対応を行い,5分以内にMEP振幅回復が得られました(よかった😊).
Q7. 本症例のように,予防的CSFドレナージと神経モニタリングを用いても,術後に対麻痺が発生する可能性があります.術後対麻痺発生時の評価と治療戦略,ICUでの管理方針について説明してください.
- 神経学的評価として,覚醒後に速やかに神経学的評価(下肢運動機能,感覚機能,反射,括約筋機能)を実施し,経時的に検査します.
- 鑑別診断としては,脊髄虚血,脊髄血腫,末梢神経障害の可能性を考慮し,必要に応じて緊急MRIを実施します.
- 治療としてはまず,平均動脈圧を90〜100mmHg以上に維持することが重要です.ノルアドレナリンなどの血管収縮薬を使用し,CSF圧を5cmH₂O以下に段階的に下げ,脊髄灌流圧を確保します.さらに,ヘモグロビン値を10g/dL以上に保ち,酸素運搬能を維持します.
- 高用量メチルプレドニゾロン(初回30mg/kg)の投与についてはエビデンスが不十分であり,施設ごとのプロトコルに従います.症状が持続する場合は血管造影を用いて,二次的な血行再建を検討する場合があります.
- ICU管理では,少なくとも72時間は厳重な血圧・CSF圧のモニタリングを続け,早期リハビリテーションを開始します.
Q8. 術後の抗凝固・抗血小板療法について説明してください.
- アスピリンについては出血リスクと血栓リスクのバランスから,一般的に術後24〜48時間以内の再開が推奨されます.
- クロピドグレルの再開時期は,術後の出血リスクが十分低下し,特に腰部CSFドレーンが抜去された後の24〜48時間を目安とします.
- CSFドレーン抜去後は最低でも4時間は経過観察し,脊髄血腫などの兆候を確認し,異常がなければクロピドグレルを再開します.
- これらの管理は患者ごとに出血リスクと虚血リスクを評価しながら、慎重に進める必要があります.