症例設定
【患者】
- 72歳男性.165cm,48kg(BMI17.6)
【現病歴】
- 1ヶ月前より食欲不振と嘔吐,および側腹部痛による経口摂取困難が生じ,3週間で体重が5kg減少.内視鏡検査で胃前庭部から幽門にかけての全周性狭窄を認め,生検にて低分化型腺癌と診断.造影CT検査で肝臓と傍大動脈リンパ節に転移巣を認め,根治手術は適応外と判断.緩和目的の胃空腸バイパス術が予定された.
【既往歴】
- 洞不全症候群:2年前に永久ペースメーカー植込み術施行(DDD設定)
- 高血圧症(20年前)
- 慢性腎臓病(CKD stage G3b)(5年前)
- 2型糖尿病(10年前)
- 慢性閉塞性肺疾患(COPD)(7年前)
【服用中薬剤】
- アムロジピン 5mg 1回/日
- カンデサルタン 8mg 1回/日
- メトホルミン 500mg 2回/日
- チオトロピウム吸入 1回/日
- アスピリン 100mg 1回/日
【ペースメーカー情報】
- モード:DDD
- レート設定:下限 60bpm,上限 120bpm
- 最終チェック:1ヶ月前(異常なし,バッテリー残量十分)
- 植込み部位:左前胸部
【主な検査所見・バイタルサインなど】
バイタルサイン:
- 血圧: 138/82 mmHg
- 脈拍: 68/分(ペースメーカー調律.自己心拍30bpm未満程度)
- 呼吸数: 18/分
- SpO₂: 94%(室内気)
- 体温: 36.5℃
身体所見:
- 呼吸音:両側下肺野で軽度の終末呼気性喘鳴あり
- 心音:整,雑音なし
- 栄養状態:やや不良
- 浮腫:なし
- 気道評価:Mallampati分類 Class II,開口良好,頸部伸展制限なし
血液検査:
- Hb 9.8g/dL,Ht 29.3%,WBC 7,800/μL,Plt 24.5万/μL
- AST 28 U/L,ALT 22 U/L,LDH 220 U/L,T-Bil 0.8 mg/dL,
- BUN 28 mg/dL,Cr 1.8 mg/dL(eGFR 31 mL/min/1.73m²),
- Na 138 mEq/L,K 4.2 mEq/L,Cl 102 mEq/L,
- Alb 2.0 g/dL,Glu 142 mg/dL,HbA1c 7.8%
- PT-INR 1.10,APTT 32秒
画像検査など
- 心電図:心拍数 68/分,ペースメーカー調律
- 胸部X線:両肺野に軽度の過膨張所見,心胸郭比 54%,ペースメーカーリード位置良好
- 肺機能検査:VC 2.2L(%VC 71%),FEV₁ 1.2L(%FEV₁ 59%),FEV₁/FVC 55%
- 心エコー:左室壁運動良好,EF 55%,弁膜症なし,右心系拡大なし
- 動脈血ガス分析(室内気):pH 7.38,PaO₂ 72 mmHg,PaCO₂ 43 mmHg,HCO₃⁻ 24 mEq/L,BE 0 mEq/L,SaO₂ 94%
Q1. この患者の麻酔リスク評価を行い,術前に最も注意すべき問題点を挙げてください.
- 洞不全症候群でペースメーカー依存状態にあり,手術中の電気メス干渉によるペースメーカー機能不全のリスクがあり.適切な設定が必要です.
- COPDがあり,%FEV₁が59%と中等度の閉塞性換気障害を認めます.ARISCATスコアは45点で中リスクに相当し,術後肺合併症を予防するため,術後早期からの呼吸理学療法と早期離床を計画します.
- eGFR 31 mL/min/1.73m²でCKD stage G3bに相当し,周術期の腎機能悪化リスクがあります.
- 低栄養状態(アルブミン2.0g/dL)と軽度貧血(Hb 9.8g/dL)を認め,創傷治癒遅延や感染リスクの上昇があります.
- HbA1c 7.8%と血糖コントロールは不十分で,周術期の低血糖・高血糖・糖尿病急性合併症(DKAなど)リスクがあります
Q2. ペースメーカー装着患者の周術期管理において,術前に確認すべき事項と準備すべき対策を挙げてください.
- 原疾患の把握,電池残量,最終点検日をペースメーカー手帳参照で確認します.
- 合わせて現在のペーシングモード,依存度,最近の不整脈イベントの有無の確認をします.
- 胸部レントゲン写真で植込部位と,リードの本数・位置を確認,
- ペースメーカー業者(や対応可能な臨床工学技士)への連絡,立ち会い依頼.
- モノポーラ電気メスの使用予定,対極板を貼る位置の確認を行っておきます.
⏩【経過】
- 患者は前日に入院し,術前評価が行われました.バイタルサインは安定してますが,軽度の貧血と低栄養状態,腎機能障害,COPDを認めます.麻酔科医による術前評価の結果,ASA-PS 3と判定されました.
- 術前にペースメーカー外来を受診し,手術に向けたペースメーカー設定の確認と電気メスによる干渉リスクの評価が行われました.患者自己心拍は消化器内科と協議の結果,アスピリンは術前5日前から中止されています.また,メトホルミンは手術前日から中止されています.
- 手術当日朝,静脈路が確保され,抗生剤(セファゾリン1g)が投与されました.また,導入後の中心静脈カテーテルの挿入を依頼されました.
Q3. 本患者の麻酔方法・人工呼吸器設定,中心静脈カテーテル挿入部位について説明してください.
- 麻酔は硬膜外麻酔併用全身麻酔で行います.低栄養や免疫低下による感染リスクを考慮する場合,末梢神経ブロックやIV-PCAを選択します.
- また,フルストマックであるため,頭部挙上,輪状軟骨圧迫下で迅速導入を行います.おそらく事前に胃管の挿入が行われていると思われるため,吸引を十分に行っておきます.
- 麻酔薬は,プロポフォール,レミフェンタニル,ロクロニウムで導入し,セボフルラン(あるいはレミマゾラム),レミフェンタニル,硬膜外麻酔で維持します.
- モニタリングとしては動脈ライン,中心静脈カテーテル挿入,BISを使用します.中心静脈カテーテルは超音波ガイド下で内頸静脈から穿刺しますが,リードとの干渉リスクがあるため慎重に.抵抗を感じたら無理に進めない.大腿静脈でもよいが感染リスクはあり.
- 人工呼吸器モードはVCV(PCV),呼吸回数は10回程度から開始し,呼気フローが基線に十分戻る程度の呼気時間を設定します.
Q4. 術中のペースメーカー設定と,術中管理の注意点について説明してください.
- 心電図モニターは,ペースメーカの放電(スパイク)を見つけられるように,また,センシング不全やペーシング不全を鑑別できるように,フィルタリング機能を解除します(心電図モニターのペースメーカー検出モードをオンに設定).
- 術中は聴診器やパルスオキシメータ,動脈ラインなど,確実に心拍数をモニタできるようにしておきます.
- また,必要に応じて除細動パッドの貼付や体外式ペースメーカーの準備も行ってくと安心です.
- ペースメーカー依存度が高いため,患者の心拍数より高頻度(10bpm程度)の非同期ペーシング(VOO,AOO,DOO)で70〜80bpm程度に設定します.この変更により電気メスなどによる電磁干渉を回避できます.
- 術後は再びもとの設定に再プログラミングするのを忘れずに.
⏩【経過】
- 上記の通り導入し,手術開始.上腹部正中切開で開腹.開腹時,腹水少量を認めます.腫大したリンパ節を複数認め,転移が疑われます.胃前庭部に腫瘤を触知し,幽門部の狭窄を確認.胃空腸バイパス術を開始しました.
- 電気メス使用時にモニター上でアーチファクトが見られますが,ペースメーカー機能は正常に動作しています.
- 手術は無事終了しました.
Q5. 手術終了後,予想以上に覚醒が遅延しています.手術終了から30分経過しても開眼せず,呼びかけに対する反応も鈍い状態です.覚醒遅延の原因として考えられるものを挙げ,系統的な評価と対応について説明してください.
- 麻酔関連要因として,麻酔薬や筋弛緩薬の残存が最も考えられます.特に肝腎機能障害患者では薬物代謝の遅延が原因となります.
- 患者要因として,肥満,高齢,呼吸・循環障害(低酸素血症,高二酸化炭素血症),代謝異常(低血糖,電解質異常),低体温があります.
- 中枢神経系要因として,術中脳虚血,脳浮腫,新規の脳血管障害があり,特に脳神経外科手術や人工心肺使用手術では注意が必要です.
- 手術関連要因として,大量出血,長時間手術,高侵襲手術(大血管手術,肝臓切除など)が挙げられます.
- 呼吸・循環動態の評価(血液ガス,バイタルサイン)に異常がないかをまず確認します.特にCOPDがあるため,二酸化炭素の貯留のチェックを行います.
- 薬剤性の要因評価として,使用した麻酔薬の確認と必要に応じた拮抗薬(フルマゼニル,スガマデクス,ナロキソン)の投与を検討します.
- 代謝性の要因(血糖値異常,ナトリウムやマグネシウムなどの電解質異常,低体温)も確認します.
- 神経学的評価では,瞳孔所見,対光反射,自発運動などを確認し,異常が疑われる場合は速やかに画像診断(CT・MRI)を行います.
- 原因がはっきりしない場合や,時間がかかる場合には,ICUでの全身管理を行いながら,定期的な再評価を行いながら経過観察を行います.
⏩【経過】
- 血液ガスを採取したところ,血糖値が40mg/dLと低値であったこと,中枢温が35℃台であることが原因と考えられました.
Q6. どのように対応しますか?
- 50%ブドウ糖20mLの投与(高血糖になりすぎないように)と復温を行います.血糖値は140〜180mg/dL程度にコントロール.
- 他の神経学的異常(脳梗塞や脳出血)を疑う理由がなければ,しっかりと復温してからの抜管が望ましいため,鎮静下でICUに入室し,復温が終了した時点で抜管を行います.
Q7. 覚醒遅延とICU入室になって件について,家族に説明を行ってください.
- 手術自体は計画通り無事に終了しております.しかし現在,覚醒に時間がかかっている状況について説明させていただきます.
- 検査の結果,血糖値が通常より低い状態(低血糖)と,体温がやや低下している状態(低体温)であることがわかりました.特に⚫⚫様の場合、糖尿病や,がんによる全身状態の影響もあったと思われます.
- 現在の対応としては,低血糖に対してはブドウ糖の点滴を行い,低体温に対しては集中治療室(ICU)で専用の温める装置を使って体温を安全に上げる処置を行っています.この間,患者さんには鎮静剤を少量使用し,体への負担を最小限に抑えながら治療を進めています.
- 体温と血糖値が安定してから,安全に気管チューブを抜く予定です.予想では数時間から半日程度で状態が改善し,その後抜管できる見込みです.
- ICUでは担当スタッフが常に付添,細かくバイタルサインをチェックしていますので,ご安心ください.
- ご心配されていることと思いますが,低血糖と低体温はいずれも適切な治療で改善する状態です.何かご質問やご不安な点がございましたら,いつでもお聞きください.
⏩【経過】
- その後,特に問題なく復温が終了し,覚醒を確認後に抜管しました.翌日一般病棟に転棟しています.
- 術後1ヶ月の外来フォローアップ時に,以前よりあった腹痛が強くなってきているとの訴えがあり,癌性疼痛の顕在化が疑われます.
Q8. この患者の癌性疼痛管理について説明してください.
非オピオイド鎮痛薬
- アセトアミノフェン:3000〜4000mg/日(分3〜4)
- NSAIDs:COX-2選択的阻害薬の検討 → 腎機能低下(CKD stage G3b)があるため慎重投与 → 短期間使用を前提に,セレコキシブ100mg 1日2回など低用量から
オピオイド導入計画
- 開始薬剤の選択: → CKD stage G3b(eGFR 31 mL/min/1.73m²)のため,オピオイドは腎代謝産物の少ないオキシコドンを第1選択とし,標準投与間隔より25〜50%間隔を延長して開始します.腎機能がさらに低下した場合はヒドロモルフォンやフェンタニルを考慮します.
- 用量調整方針: → 効果と副作用を2〜3日ごとに評価し,25〜50%ずつ増量 → 安定したらコントロール量に応じて徐放性製剤へ移行します.
- レスキュー薬: → 定時投与量の1/6量を突出痛用に処方(初期はオキシコドン2.5mg) → 使用状況の記録と定期的評価を行います.
- 便秘・腸閉塞予防として,末梢性μオピオイド受容体拮抗薬(PAMORA)のナルデメジン0.2mgを併用も考慮します.
鎮痛補助薬の検討
- 神経障害性疼痛成分への対応: → プレガバリン25mg就寝前より開始,腎機能に応じて調整 → または腎機能障害がある場合はミロガバリンも選択肢です.
その他,心理的なサポートも行っていく必要があります.