想定問題
【患者】
- 72歳男性.172cm,75kg(BMI25.4)
【現病歴】
- 本日早朝(朝食前)に突然の胸背部激痛で発症.救急搬送された.造影CT検査でStanford A型急性大動脈解離と診断され,緊急弓部大動脈人工血管置換術が申し込まれた.
【既往歴】
- 高血圧症(20年前から)
- 2型糖尿病(10年前から)
- 慢性腎臓病ステージG3a(eGFR 55 mL/min/1.73m²)
- 心筋梗塞,脳血管障害の既往なし
- 喫煙: 20本/日×40年(現在も継続) 飲酒: ビール350ml/日
【服用中薬剤】
- アムロジピン 5mg 1回/日
- テルミサルタン 40mg 1回/日
- メトホルミン 500mg 2回/日
- ロスバスタチン 2.5mg 1回/日
【主な検査所見・バイタルサインなど】
血液検査
- WBC 12,800/μL, RBC 420万/μL, Hb 13.2g/dL, Ht 39.5%, Plt 17.8万/μL
- AST 35 IU/L, ALT 32 IU/L, LDH 280 IU/L, T-Bil 0.8mg/dL
- BUN 24mg/dL, Cr 1.1mg/dL
- Na 141mEq/L, K 4.3mEq/L, Cl 104mEq/L
- Glu 180mg/dL, HbA1c 7.2%
- PT-INR 1.05, APTT 35秒, Fib 380mg/dL, D-dimer 2.5μg/mL
- BNP: 240pg/mL
- 動脈血液ガス分析(room air):pH 7.41, PaO₂ 85mmHg, PaCO₂ 38mmHg, HCO₃⁻ 24mEq/L, BE 0.2mEq/L, Lac 2.0mmol/L
心電図:
- 洞性頻脈,左室肥大所見
胸部X線:
- 心胸郭比 58%,上縦隔拡大,肺うっ血所見なし
経胸壁心エコー:
- 左室駆出率(LVEF) 55%
- 左室壁運動異常なし
- 上行大動脈拡大(最大径52mm)
- 心嚢液貯留あり(心タンポナーデ兆候あり)
- 大動脈弁閉鎖不全(AR)II度
- 僧帽弁閉鎖不全なし
- 推定右室収縮期圧 36mmHg
気道評価:
- Mallampati分類 II度
- 開口制限なし
- 頸部伸展制限なし
- 上下顎関係 正常
画像所見(造影CT):
- 大動脈基部から弓部大動脈にかけてintimal flapあり(Stanford A型)
- 偽腔開存型,最大径54mm
- 心嚢液貯留あり(最大10mm)
- 主要分枝(腕頭動脈,左総頸動脈,左鎖骨下動脈)への解離進展あり
- 冠動脈への解離,臓器虚血所見なし
- 胸腹部下行大動脈にも一部解離進展あり
搬入時バイタルサイン
- 血圧: 165/90mmHg(右上肢), 140/80mmHg(左上肢)
- 心拍数: 110回/分
- 呼吸数: 20回/分
- SpO₂: 96%(室内気)
- 体温: 36.8℃
予定術式:
- 弓部大動脈人工血管置換術
- 人工心肺使用予定(循環停止下での脳分離体外循環を併用)
⏩【経過】
- 患者は胸背部痛を訴えながら手術室に入室.意識清明だが不安感強い.
Q1. 本症例の術前評価において,既往疾患以外で最も重要な問題点と対策を挙げてください.
- 急性A型大動脈解離に伴う心タンポナーデ伸展によるショック
- 解離伸展に伴う心筋虚血,重症AR,脳梗塞
- 大動脈破裂 など
対策
- 迅速な手術準備と麻酔導入・および手術開始
- 心タンポナーデ解除時の循環動態変化への備え,
- 周術期の厳格な血圧管理(特に急激な血圧上昇の防止) が必要です.
- 具体的には,麻酔導入前から降圧薬(ニカルジピン,ジルチアゼム,エスモロールなど)の準備,複数の血管確保,導入前の動脈ライン確保,心嚢液排出時の急激な血行動態変化への準備(輸液・昇圧薬)を行います
- また,各種モニター(心電図,TEE,NIRSなど)を用いた,解離に伴う臓器虚血(冠動脈,脳血管,腸管など)の有無の評価も重要です.
Q2. 本症例の麻酔導入方法について,具体的な薬剤選択について説明してください.また導入時の注意点を挙げてください.
- 重要なのはショックの防止と血圧上昇による解離進展予防です.
- フェンタニル(4〜5μg/kg程度.レミフェンタニル使用時は減量),レミフェンタニル,ミダゾラム(やレミマゾラム)またはプロポフォール(循環動態不安定時は使用は控える),ロクロニウムで導入します.挿管はビデオ喉頭鏡で愛護的に.
注意点
- 各種降圧薬および昇圧薬の準備をしておきます.
- 心タンポナーデ合併のため,高い陽圧換気による循環抑制に特に注意.
- 導入前に動脈ライン確保.
Q3. 本症例ではどのようなモニタリングを行いますか?
- 観血的動脈圧測定(右橈骨動脈,大腿動脈)
- 中心静脈圧(CVC or 肺動脈カテーテル)
- TEE:解離の範囲・進呈評価,心タンポナーデ評価,AR評価,左室充満の評価,壁運動異常の評価など超有用
- NIRS:脳虚血・脳灌流の評価,左右差の評価,おでこに空きがあればBIS😅
- 可能であればTEG/ROTEM
⏩【経過】
- 導入は特に大きな血圧変動もなく終了しました.手術が開始され,胸骨正中切開,心膜切開後に急激に血圧が低下しました(血性心嚢液300mL).
🖥️【心膜切開時のバイタルサインなど】
- 観血的動脈圧: 80/45mmHg(急激に低下)
- HR: 120回/分(上昇)
- CVP: 8mmHg(低下)
- SpO₂: 99%
- EtCO₂: 30mmHg(低下)
- 脳組織酸素飽和度: 左55%,右58%(低下)
Q4. この血圧低下に対し,考えられる原因と対応策について説明してください.
- タンポナーデ解除後症候群が考えられます.心タンポナーデでは右室充満が制限され,相対的右室前負荷不足となっており.急激な心嚢液排出により右室への静脈還流が増加しますが,長時間のタンポナーデで右室機能低下があると,右室は突然の前負荷増加に対応できず,右室拡大・機能不全が生じます.また同時に,左室前負荷は相対的に減少するため,全体として急激な血圧低下を引き起こします.
対応
- 輸液負荷:左室前負荷確保
- 循環作動薬投与:ノルアドレナリンやドブタミンなど
- TEEによる心機能評価:右室・左室機能,容量状態評価
- 換気条件調整:過度のPEEPを避ける
Q5. 本症例において超低体温循環停止法を用いた脳保護について,具体的方法とモニタリング法,復温時の注意点について説明してください.
- 超低体温循環停止と選択的脳灌流(SCP)を組み合わせます.
- 循環停止前に頭部冷却を開始します(氷嚢など)
- 分枝カニューレによる脳分離体外循環の開始と,循環停止時間も短くする(可能なら45分以内) .復温は緩徐に行います.速い復温で気泡が発生するリスクがあります.
- 副腎皮質ステロイド(メチルプレドニソロンなど)の前投与.
モニタリング
- NIRS:ベースラインから20%以上低下する場合や,左右差に注意
- BIS:平坦脳波を確認
- 灌流圧:50〜60mmHg程度を維持する.
復温時の注意点
- 急激な復温では血管内に気泡が発生するリスクがあります.
- 血管内気泡発生の予防のためには,復温速度を1℃/5分以下に制限する,送血温と患者中心温の温度勾配を10℃以内に維持する,人工心肺回路内の適切な脱気,動脈フィルターの使用などを行います.
補足・解説
- 超低体温により脳代謝率が約50〜60%低下します.
- 酸素消費量は18℃では脳酸素消費量は常温の15〜20%まで減少します.
⏩【経過】
- 無事に血管吻合が終了し,人工心肺からの離脱を試みています.
🖥️【人工心肺離脱時のバイタルサイン】
- 観血的動脈圧 60/40mmHg
- 心拍数 130回/分
- CVP 18mmHg
- TEEで左室の収縮が著しく不良
Q6. 離脱困難な状態です.考えられる主な原因を挙げ,それぞれの診断に有用なTEE所見と,初期対応について説明してください.
- TEE所見が重要です.心電図変化,血行動態パラメータ(CVP,PAP,CO/CI,SvO₂/ScvO₂),血液ガスなどを総合的に評価します.
- まずは基本的な循環作動薬で反応を見ながら原因を絞り込みます.
- 対処により改善が乏しい場合は速やかに人工心肺補助を再開し,より詳細な原因検索と根本治療(外科的介入含む),または機械的補助循環の導入(VA-ECMOやIABP)を考慮します.
心筋虚血・梗塞:
- 左室または右室の壁運動異常やびまん性収縮低下,心室拡大をチェック.
- 冠動脈入口部の解離伸展や空気・血栓塞栓による閉塞,吻合部狭窄やひきつれなどがないかを評価します.
- 大動脈弁や僧帽弁の逆流の程度も確認します.
- 冠動脈入口部に問題がないか外科医に確認依頼.冠血管拡張薬(ニトログリセリンなど)の投与. 後負荷軽減(ミルリノンなど) ,強心薬(ドブタミン,アドレナリン,ミルリノンなど)の投与.平均動脈圧を維持しつつ冠灌流圧を確保します.
- 改善なければ人工心肺再開,原因検索・治療継続.IABPやVA-ECMO導入を検討します.
心筋保護不良・再灌流障害
- びまん性の壁運動低下,心筋浮腫による壁肥厚,心室腔の狭小化.左室拡張能低下(コンプライアンス低下)を確認します.
- 基本的な対応は上記と同様の対応を行います(後負荷軽減,強心薬).
- 特に拡張障害が主体の場合は過剰な輸液を避け,前負荷を適切に管理します.
- 時間をかけて回復を待つ必要がある場合が多く,IABPやVA-ECMO導入を検討します.
⏩【経過】
- 循環作動薬を増量,慎重に空気の除去を行い,IABPを挿入し徐々に循環動態は安定し,手術終了後はICUに入室しました.
- 術翌々日,循環・呼吸状態も安定し,鎮静薬・鎮痛薬を減量したところ,自発呼吸が発現し、呼びかけに開眼するようになりました.
Q7. 人工呼吸器からの離脱(抜管)を検討する際の基準(ウィーニング基準)と、この症例において特に注意すべき抜管後の合併症について説明してください
- 原疾患の状態が安定していることが前提です.循環動態の安定(十分な血圧維持,重篤な不整脈のないこと,環作動薬の不使用または低用量).また,術後出血やその他の重篤な合併症がないことを確認します.
- 意識状態はほぼ声明で,従命が可能であること,進行するアシドーシスがないことを確認します.
- 呼吸機能の確認
- 十分な最大吸気圧,一回換気量があり,頻呼吸がないこと,筋弛緩が適切に拮抗されていること,十分な酸素化,二酸化炭素貯留がないことを確認します.
注意するべき抜管後の合併症
- 気道浮腫(長時間手術,人工心肺手術等でリスク)の有無を確認しておきます.必要に応じてデキサメタゾン投与.
- 気道分泌物貯留による無気肺・肺炎,喉頭痙攣の可能性.
- 急性腎障害の可能性
- 術後せん妄の可能性.
Q8. 術後ICU管理において,脳神経学的合併症(右半身の動き・筋力が弱い)が疑われる所見を認めた場合の評価方法と,家族への説明方法について述べてください.
- 基本的評価としては意識レベル(GCSやRASSスケール),瞳孔径と対光反射,四肢の運動反応,脳幹反射などを系統的に評価します.
- 鎮静薬の効果が消失している段階では,見当識や従命可能かどうか,言語機能などの高次機能評価を行います.
- 画像診断としては,脳出血や脳梗塞の評価には頭部CTやMRIを行います(術後早期に頭部MRIが実施困難な場合はまずCTを行い,安定後MRIを追加します).
- この患者は下行大動脈にも伸展があるため,術後は下肢の感覚・運動機能の評価を行い,脊髄虚血による下肢麻痺がないかも慎重に確認する必要があります.
家族への説明例
- 本日は弓部大動脈置換術後の○○様の状態についてご説明いたします.まず,手術自体は予定通り終了し,大動脈の修復は成功しております.心臓の働きも徐々に安定してきております.
- ただ,現在気になる点として,患者様の右半身,特に右腕と右足の動きがやや弱いことが確認されています.意識レベルは鎮静薬の影響もありますが,呼びかけに対して反応はあります.瞳孔の動きは正常です.
- このような症状が出ている原因としては,手術中に使用した人工心肺や超低体温循環停止の影響で,一時的に脳への血流が減少したか,あるいは非常に小さな血栓が脳の一部に移動した可能性が考えられます.大動脈の手術では,このような状態が起こることがあり,特に緊急手術であったこと,手術時間が長かったことも関係しているかもしれません.
- 現在,詳しい状態を確認するために頭部CT検査を実施中です.また,脳を保護するために適切な血圧を維持し,十分な酸素を供給する治療を行っています.血液の流れをスムーズにする薬も使用しています.
- 今後の見通しについてですが,このような症状からの回復には個人差があります.症状の改善は数日以内に始まることもありますが,通常は数週間程度,場合によっては数ヶ月にわたる回復期間を要することがあります.年齢や術前の状態を考えると,リハビリテーションを含めた回復支援が必要になる可能性があります.
- 定期的に状態を評価し,変化があればすぐにお伝えします.また,今後も定期的に状態の報告をさせていただきます.