症例設定
【患者】
- 72歳男性.
【現病歴】
- 約3ヶ月前の定期健康診断で撮影された胸部CTにて,胸部下行大動脈の拡大を偶然指摘された.自覚症状は特になく,動脈解離や切迫は列を示唆する明らかな所見は認められていないが,動脈瘤径が7.5cmと大きく自然破裂のリスクが高いと判断された.
【既往歴】
- 高血圧症(10年前から,ARBで加療中)
- 脂質異常症(スタチンで加療中)
- 2型糖尿病(5年前から,メトホルミンで加療中,HbA1c 7.0%)
- 慢性閉塞性肺疾患(COPD: GOLD分類 Stage II, FEV1 70% of predicted, FEV1/FVC 65%,元喫煙者 40 pack-years,禁煙後10年)
- 慢性腎臓病(CKD: Stage G3a,eGFR 55 mL/min/1.73m²)
【服用中薬剤】
- オルメサルタン 20mg 1錠/日(朝食後)
- アトルバスタチン 10mg 1錠/日(夕食後)
- メトホルミン 500mg 2錠/日(朝・夕食後)
- アスピリン 100mg 1錠/日(朝食後)
主な検査所見・バイタルサインなど
バイタルサイン: BP 145/85 mmHg, HR 75 bpm (sinus), RR 16 /min, SpO2 96% (room air), Temp 36.5 °C
血液検査
- WBC 7,500 /μL, RBC 400万 /μL, Hb 11.8 g/dL, Ht 36%, Plt 25万 /μL
- TP 7.0 g/dL, Alb 3.8 g/dL, AST 25 U/L, ALT 30 U/L, LDH 180 U/L
- BUN 25 mg/dL, Cr 1.3 mg/dL (eGFR 55),
- Na 140 mEq/L, K 4.2 mEq/L, Cl 105 mEq/L,
- Glu 130 mg/dL (空腹時)
- PT 12.5秒(PT-INR 1.1), APTT 30秒, Fib 300 mg/dL
- 動脈血ガス分析 (room air): pH 7.38, PaCO2 42 mmHg, PaO2 85 mmHg, HCO3 24 mEq/L, BE -1 mEq/L
画像検査など
- 心電図: 洞調律,心拍数 75 bpm,左室高電位,ST-T変化なし
- 胸部X線: 心胸郭比 55%,肺門部血管影増強,肺野透過性亢進(COPD所見),下行大動脈の拡大蛇行あり
- 呼吸機能検査: FEV1/FVC 65%, FEV1 1.8 L (予測値の70%), %VC 90% (中等度の閉塞性換気障害)
- 心エコー: LVEF 55%, 左室壁運動は正常範囲内,軽度の左室肥大,拡張能障害,弁膜症なし,推定右室収縮期圧 30 mmHg.下行大動脈起始部に拡張を認める.
- 胸腹部CT:左鎖骨下動脈分岐部直下から横隔膜上部にかけて最大径 6.5 cm の紡錘状胸部下行大動脈瘤を認める.壁在血栓あり.解離や切迫破裂所見なし.腎動脈までの距離は十分あり.
身体所見など
- 気道評価: Mallampati class II,開口 4cm,頸部可動域 良好,甲状頤間距離 7cm.気道確保困難の予測なし.
Q1. 本症例の術前評価において,特に注意すべきリスク因子と,それらに対する麻酔計画上の注意点を述べてください.
- 主要リスクは,高齢,複数の合併症(HT, DM, HLD, COPD, CKD),術式と麻酔法自体(胸部大動脈手術,片肺換気の必要性,大動脈遮断の影響,大量出血リスク,部分体外循環の導入と離脱に伴う合併症)です.
- 麻酔管理としては,それぞれ以下に注意して管理を行います.
- 循環管理:血圧管理(特に遮断/解除時),大量出血への準備(太い静脈路確保,急速輸液装置,血液製剤準備).体外循環確立および離脱のためのTEEの使用
- 呼吸管理:COPDを考慮した肺保護的換気,片肺換気に伴う低酸素血症への対処,気管支鏡によるチューブ位置や分泌物の確認等.術後肺合併症予防のため,術前の呼吸理学療法や術後早期の離床を積極的に行う.
- 周術期AKIの予防:CKD悪化リスクを考慮し,術中腎血流維持(適切な循環管理),腎毒性薬剤の回避,造影剤使用の最小化,術後尿量・腎機能モニタリング.
- 脊髄保護:遮断中の遠位血圧維持,脳脊髄液ドレナージドレナージやMEPモニタリング.
- 代謝: 血糖コントロール,低体温予防.
- 術後鎮痛:フェンタニルIV-PCA主体
Q2. 本症例における麻酔法の選択とその理由について説明してください.
留意点
- 導入時・挿管時・体位変換時の血圧の大きな変動を避ける必要があります.
- MEPモニタリングを行うため、それに適した麻酔法の選択を行います.
麻酔法
- フェンタニル,レミフェンタニル,プロポフォール,ロクロニウム(初回投与のみ)で導入し,維持はレミフェンタニル,フェンタニル,プロポフォール(TCI)で行います.
- モニタリングとしては,動脈ライン(右橈骨),中心静脈カテーテル(or 肺動脈圧カテーテル),MEP,NIRS,TEEを用います.
⏩【経過】
- 患者は手術室に入室.標準モニター(ECG, SpO2, NIBP)装着.右橈骨動脈にAライン,麻酔導入後に右内頸静脈にオキシメトリ付CVCを挿入.麻酔はフェンタニル 200μg,プロポフォール 100mg,ロクロニウム 70mgで導入し,左用ダブルルーメンチューブ(39Fr)を挿管.気管支鏡で位置を確認しています.
Q3. 片肺換気(OLV)を開始した後,SpO2が徐々に88%まで低下しました.どのように評価し,対応しますか?具体的な手順を説明してください。
- FIO₂の上げる余地があれば上昇させます.
- 気道・チューブ位置確認:気管支鏡を挿入し,ダブルルーメンチューブの位置が適切か,分泌物による閉塞がないかを確認します.
- 換気側(右肺)の評価:聴診,換気量・コンプライアンスを確認.リクルートメント手技,PEEP調整(例:5-10 cmH2O)を試みます.
- 循環評価:極端な血圧低下や不整脈などがないかを確認します.
- 非換気側(左肺)への対応:非換気肺へのCPAP(5 cmH₂O程度)を試みます。
- 換気方法の変更:改善なければ,一時的な両肺換気を試みます。
- 外科的要因:肺の過度な圧排や牽引がないか確認.改善なければ外科医に非換気側肺動脈の一時的クランプも協議します(ここまですることはほとんどないと思いますが).
⏩【経過】
- 左開胸後,肺圧排,大動脈瘤確認.ヘパリン 5000単位静注,ACT 400秒確認.大動脈の近位(左鎖骨下動脈直下)および遠位(横隔膜直上)を遮断しました.
- 本症例では大腿静脈脱血(先端は右房付近にTEEで誘導),大腿動脈送血の部分体外循環を行っています.
Q4. 大動脈遮断中の循環管理について,近位(上肢)血圧と遠位(下肢)血圧の,具体的な管理方法について説明してください.
近位(橈骨動脈)血圧の管理目標:
- 近位の灌流は自己の心拍出によって維持されます.
- 目標は脳・心臓・上肢への十分な灌流を確保しつつ,左室の過負荷を避ける範囲,例えば平均動脈圧(MAP) 60〜80 mmHg程度とします.低すぎると上半身臓器虚血,高すぎると心筋酸素消費増大のリスクがあります.
- 脱血しすぎると血圧が低下するので,人工心肺側での脱血量の調節が必要になることもあります.
- 適切な脱血が行われても血圧が高くなりすぎる場合は,麻酔深度の調節,必要であれば血管拡張薬(ニトログリセリン,ニカルジピンなど)の持続投与でコントロールします.
遠位(大腿動脈)血圧の管理目標:理想的には60〜70mmHg以上)。
- 脊髄や腹部臓器(腎臓、腸管など)への灌流を維持します.特に脊髄灌流圧(≒遠位MAP – 髄液圧 or CVP)を確保することが対麻痺予防に重要になります.
- 遠位循環補助を使用しない場合は達成困難なことも多いですが,遠位循環補助を行う場合は,その流量で目標圧を達成します.
Q5. 本術式における脊髄虚血のリスクと,その予防・モニタリング戦略について説明してください.
- 胸部下行大動脈遮断は前脊髄動脈領域(特にAdamkiewicz動脈支配域 T8〜L1レベル)の血流を途絶させ,対麻痺のリスク(報告により1〜10%程度)があります.リスク因子には遮断時間の長さ,遮断高位,既存の血管病変,術中低血圧などがあります.
- 本症例でも
予防・モニタリング
- 遠位大動脈灌流維持:左心バイパス,部分体外循環など
- 脳脊髄液ドレナージ:目標髄液圧 < 10 mmHg。
- MEPモニタリング:有意な振幅低下(例:ベースラインの50%以下)は警告所見。
- 体温管理:軽度低体温(34-35℃)は議論あり.
- 薬理学的保護: 色々と提唱はされていますが(ステロイド,ナロキソン,マンニトールなど),確立された薬剤はないようです.
- その他:適切な遠位平均動脈圧維持,貧血や低酸素状態の回避.
⏩【経過】
- p-CPBによる遠位循環補助下に大動脈遮断を行っている最中に、両下肢の運動誘発電位(MEP)の振幅がベースラインから70%以上低下しました。
Q6. このMEP低下の原因として、何を考えますか?鑑別診断を挙げてください
- 脊髄虚血: 不適切な遠位灌流圧/流量,高い脳脊髄液圧(CSFP),血栓・塞栓
- 全身性の要因:低血圧(灌流圧低下),低酸素血症,貧血,重度低体温.
- 麻酔関連要因:麻酔深度変化(特に揮発薬や高用量静脈麻酔薬),筋弛緩薬効果.考えにくいけど.
- 技術的・モニタリング要因:電極の問題(ずれ、接触不良)、機器不具合,電気的干渉.
まず技術的要因を除外し,次に麻酔・全身性要因を確認,最終的に脊髄虚血を最も疑い対応します.
Q7. 麻酔科医として直ちに行うべき対応について説明してください.
- 全スタッフとの情報共有:MEP低下をチーム全体に伝え,状況認識を共有し,経時的に報告を行います.
- 記録電極と刺激電極に問題がないかを確認し,上肢のMEPの振幅を確認します.
- 上肢のMEPに問題がなく,下肢のMEPのみが低下している場合は脊髄虚血が疑われます.遠位灌流圧の積極的上昇や貧血の是正,血行再建,脳脊髄液ドレナージ等を行います.具体的には,遠位送血流量を速やかに増加し,遠位MAPを目標値(60mmHg以上)まで上げ,同時に,脳脊髄液ドレナージカテーテルが挿入済みであれば,直ちに髄液をドレナージして髄液圧を10mmHg以下に低下させるなど.
- 下肢MEPの低下が大腿動脈送血管挿入側のみであれば挿入遠位の下肢虚血の疑いがあり,経過観察か,血管外科医との協議が必要です.
- 上肢のMEPの振幅も低下している場合には高度な低体温や麻酔薬自体の影響,脳梗塞などが疑われます.
⏩【経過】
- MEP低下に対し上記対応を実施し,MEPはベースラインの80%程度まで回復した.p-CPB離脱成功後,プロタミン投与,カニューレ抜去・止血を経て手術終了した.
Q8. CU入室後の早期(最初の数時間)における,最も重要な管理目標と注意点について説明してください.
- 神経学的評価(最重要):術中のMEP低下を考慮し,早期の覚醒(十分な鎮痛も必要)と頻回かつ詳細な神経学的評価(特に下肢の運動・感覚、膀胱直腸機能)が重要です.
- 脊髄灌流圧維持のため,通常より高めの血圧管理を維持します.
- 凝固機能と出血の有無の観察を継続的に行います.
- 急性腎不全の予防と早期発見:尿量、腎機能、電解質を経時的にモニターします.