症例設定
【患者】
- 72歳女性.152cm,66kg(BMI28.5)
【現病歴】
- 6か月前から労作時呼吸困難(NYHA III度)と下腿浮腫を認め,近医受診.心臓超音波検査で重度僧帽弁閉鎖不全症(MR)を指摘され,当院循環器内科紹介.精査の結果,僧帽弁後尖の逸脱によるMRと診断され,低侵襲心臓手術(MICS)による僧帽弁形成術が予定された.
【既往歴】
- 高血圧(20年前より)
- 2型糖尿病(15年前より)
- 慢性心房細動(10年前より)
- 慢性腎臓病(stage3b).
- 一過性脳虚血発作(2年前)
【服用中薬剤】
- ビソプロロール 2.5mg 1日1回
- アムロジピン 5mg 1日1回
- カンデサルタン 4mg 1日1回
- メトホルミン 500mg 1日2回
- アピキサバン 2.5mg 1日2回(腎機能低下のため減量)
- フロセミド 20mg 1日1回
【主な検査データ・バイタルサインなど】
血液検査
- Hb 11.2 g/dL,Plt 18.5万/μL,WBC 6800/μL
- PT-INR 1.8,APTT 42秒
- BUN 28 mg/dL,Cr 1.6 mg/dL,eGFR 32 mL/min/1.73m²,
- Na 138 mEq/L,K 4.3 mEq/L,Cl 105 mEq/L,
- Glu 132 mg/dL,HbA1c 6.8%,
- BNP 320 pg/mL
- 動脈血ガス(室内気):pH 7.38,PaO2 78 mmHg,PaCO2 43 mmHg,HCO3⁻ 24 mEq/L,BE -0.5
画像所見など
- スパイロメトリ:%VC 78%,FEV1.0% 76%
- 心エコー:左室駆出率(LVEF)48%,左室拡張末期径(LVDd)58mm,左房径 46mm
- 胸部X線:CTR 60%,肺うっ血所見あり,胸水なし
- 心臓超音波:重度MR(逆流率 45%),後尖P2領域の逸脱,左室拡大,左房拡大
- 冠動脈造影:有意狭窄なし
- 頸動脈超音波:両側軽度プラーク形成あり,有意狭窄なし
- 下肢血管エコー:両側大腿動静脈に有意狭窄なし(MICSアプローチのための大腿動静脈評価)
特記すべき身体所見
- 聴診:心尖部で全収縮期雑音(Levine IV/VI),肺野で軽度湿性ラ音
- 下腿に軽度浮腫あり(両側+)
- 頸静脈怒張あり
- 気道評価:Mallampati分類 II度,開口制限なし,頸部伸展制限なし
- 歯:左上第二大臼歯が動揺あり
搬入時バイタルサイン
- ECG:心房細動,HR 78/分
- NIBP:132/78 mmHg
- SpO₂:96%(O2 5L/分マスク)
- 体温:36.2℃
⏩【経過】
- 患者は手術室に入室し,標準モニターを装着しました.アピキサバンは手術5日前に中止,ヘパリンブリッジは行っていません.術前の不安があり,やや緊張した表情です.MICS僧帽弁形成術のため,右小開胸アプローチが予定されています.大腿動静脈カニュレーションのための準備も行われています.
Q1. 本症例の術前リスク評価において特に重視すべき点は何ですか?MICS特有のリスクと,通常の胸骨正中切開アプローチと比較した場合の利点・欠点を説明してください.
重視すべき点
- 肥満による気道確保困難の可能性,術中呼吸状態の悪化の可能性,術後呼吸器合併症の可能性があります.
- 各種検査結果から中等度の心機能低下が示唆され,術後低心拍出量症候群のリスクがあります.
- CKDがあり,人工心肺使用手術であることから,術後急性腎障害発症のリスクがあります.
- 心房細動と抗凝固薬(アピキサバン)休薬による血栓塞栓症リスクがあります.術中脳虚血にも要注意.
MICS特有のリスク評価
- 血管アクセス評価: 大腿動静脈カニュレーションのため,下肢血管評価が必須です(本症例では有意狭窄なし).大動脈の粥状硬化評価も逆行性塞栓リスク評価のため重要です.
- 低酸素血症リスク: 片肺換気の必要性があり,術中低酸素血症のリスクあり(肺の状態はそれほど悪くないが)
- 神経合併症リスク: 大腿動脈カニュレーションによる逆行性灌流に伴う脳合併症リスク.
- 末梢灌流不全リスク: 大腿動脈カニュレーションによる下肢虚血リスク.
- CO₂ガス塞栓リスク: 術野展開のためのCO₂送気に伴うリスク.
胸骨正中切開との比較
- 利点としては,創部痛の軽減,呼吸器合併症減少,回復期間の短縮,美容的な利点,出血量減少の可能性があること
- 欠点としては,手術時間延長,人工心肺時間延長,技術的難易度の上昇(低侵襲手技・術野の物理的な制限),片肺換気が必要になること,大腿動静脈カニュレーション関連合併症(下肢虚血,血管損傷,解離,塞栓)リスク,CO₂ガス塞栓リスクがあること などです.
Q2. 本症例の麻酔導入および気道管理・モニタリング選択(標準モニタリング以外)について説明してください.
- 導入は血行動態への影響が少ない,ミダゾラム(orレミマゾラム),フェンタニルで導入し,維持は同薬剤にレミフェンタニルを追加します.
- 気管チューブは左用ダブルルーメンチューブ(DLT)35Frを使用します.挿管はビデオ喉頭鏡使用.換気設定はPCVでもVCVでも.理想体重あたり6〜8mL/kg程度になるように圧,換気量を設定,プラトー圧は30cmH₂O,駆動圧は15cmH₂Oを超えないように.PEEPは5〜10cmH₂O程度で.
- モニタリングは動脈ライン,CVC or PAC,TEE,NIRS,あればROTEM/TEG.下肢にもパルスオキシメータ.
⏩【経過】
- 麻酔導入は問題なく終了しました.体位をとり,手術開始しました.
Q3. 分離肺換気中にSpO₂が88%まで低下しました.考えられる原因と,対応について説明してください.
- 波形がきちんと出ているかをまず確認.血液ガスも採取.バイタルサインの確認
- 回路トラブル,DLTの位置異常,人工呼吸器設定通りに換気がされているかを確認します.
- 分泌物貯留や肥満による無気肺,換気血流不均等の悪化(片肺換気の影響)
- 他には気管支痙攣や気胸など.疑えば聴診やエコーしましょう.
- 対応としては吸入酸素濃度の上昇,PEEP増加,非換気側へのCPAP(術野への影響注意),適宜両肺換気,分泌物の吸引など.
⏩【経過】
- 分泌物の貯留による無気肺と診断.気管支ファイバーで吸引,リクルートメントマニューバーを行い,酸素化は改善しました.
- 人工心肺確立のためのカニュレーションは大腿動静脈で行います.
Q4. MICSでの大腿動静脈カニュレーション合併症と対策について説明してください.
- 大腿動脈カニュレーションでは以下の合併症が考えられます.
- 下肢虚血:側副血行不足,血管径と比較しカニューレが大きすぎる場合
- 血管損傷:解離,穿孔,仮性動脈瘤
- 後腹膜出血
- 逆行性大動脈解離
- 逆行性脳塞栓症(特に高度大動脈粥状硬化症例)
- 大腿静脈カニュレーションでは以下の合併症が考えられます.
- 下肢うっ血
- 深部静脈血栓症
- 血管損傷
- 不十分なドレナージによる人工心肺流量不足
- 予防としては,
- 術前の詳細な血管評価(超音波,CT血管造影など)
- 適切なカニューレサイズ選択
- 下肢灌流用カニューレ(distal perfusion catheter)の準備
- 超音波ガイド下穿刺
- 慎重な血管操作 などを行います.
- また,合併症の早期発見のためには以下の点に留意します.
- 下肢冷感・色調の定期的評価
- 足背動脈触知または超音波ドプラ評価
- 下肢へのパルスオキシメータ装着
- NIRS(近赤外線分光法)による下肢組織酸素飽和度モニタリング
- NIRS(rSO₂)モニタリングによる脳塞栓早期発見
⏩【経過】
- 現在人工心肺中です.術野の確保に難渋しており,予想より時間がかかっています.
Q5. 手術手技の困難さや時間延長が続く場合,外科医とどのような情報を共有し,どのタイミングで胸骨正中切開へのコンバージョンを検討・提案しますか.
共有すべき情報
- 麻酔科医は,現在の患者状態(循環動態の安定性,呼吸状態,麻酔深度,凝固能,体温,尿量,アシドーシスの程度など)を伝えます.また,変化があればこれも速やかに外科医に伝えます. 特に,手術時間延長や手技困難さが患者の生理状態に与える影響(アシドーシスの進行,凝固障害の悪化,推定される人工心肺時間延長によるリスク増加など)について検査データやバイタルサインを提供します.
- 外科医からは,手技的な困難さの具体的な内容(視野不良,出血コントロール困難,予期せぬ解剖学的異常,弁形成の難しさなど)とその解決の見込みについて情報を得ます.
- コンバージョンに伴う麻酔科側の準備やリスク(体位変更,追加ライン確保,気道管理変更の必要性,人工心肺回路変更,さらなる時間延長など)についても事前に情報を共有する必要があります.
検討や提案のタイミング
- 外科医が手技的な困難を感じ始めた初期段階で(なんか不穏な空気が漂っていたら),「このままMICSで継続できそうか,あるいはコンバージョンの可能性も考慮すべきか」といった意見交換を開始することが重要である(でも機嫌わるいかも😅).
- 制御困難な出血が発生した場合や,重要な構造物(冠動脈,大動脈,肺静脈など)を損傷するリスクが高いと判断された場合.
- *予期せぬ複雑な弁病変や広範な石灰化などにより,MICSアプローチでは目的とする弁形成や置換が達成できない,あるいは不十分になる可能性が高いと判断された場合.この場合は外科医が提案してくると思います.
- 手術時間が著しく延長し,人工心肺時間延長による患者への侵襲(腎障害,凝固障害,炎症反応など)が許容範囲を超えると麻酔科医が判断した場合.特にアシドーシスが進行し,循環動態が不安定化してきた場合など.
- 麻酔科側から提案する場合は,客観的データ(例:出血量,経過時間,アシドーシスの進行度,予想されるCPB時間)を示しつつ,「この状況が続くと患者さんのリスクが高まります.安全かつ確実に手術を完了するために,胸骨正中切開への移行を検討する段階ではないでしょうか」など,患者の安全を前面に出し,協調的かつ建設的な態度で提案する(下手な言い方や,信頼関係が築けていない場合はトラブルかも・・😅)
Q6. MICSから通常の胸骨正中切開への術中コンバージョンが必要となった場合,麻酔管理上の変更点(気道,循環,モニタリング,薬剤など)と注意点を説明してください.
気道管理:
- 片肺換気から両肺換気へ移行する.
- ダブルルーメンチューブ(DLT)を使用していた場合,通常はそのまま両肺換気を行いますが,チューブの位置ずれのリスクや,術後の抜管戦略によっては,シングルルーメンチューブへの入れ替えを検討します.気管支ブロッカーの場合は,単純にブロッカーを抜去またはカフを脱気する.
- 換気設定の再調整
循環管理:
- 体位変換(側臥位に近い体位から仰臥位へ)に伴う血行動態変動に注意し,対応する(特に静脈還流の変化).
- カニュレーション部位の変更に伴う管理:通常,大腿動静脈カニュレーションから,上行大動脈送管および右房(または上下大静脈)脱血への変更が行われます.カニューレ挿入・抜去時の血圧変動,出血,空気塞栓に注意.送血部位変更に伴う灌流圧や脳灌流の変化にも注意が必要です.実際の変更などは心臓外科医や臨床工学技士との協議が行われます.
モニタリング:
- 体位変換や術野変更に伴い,各種モニター(ECG電極,SpO₂プローブ,動脈ライン,CVPライン,TEEプローブ,体温プローブ,尿道カテーテル,NIRSプローブなど)の位置ずれ,屈曲,圧迫,破損がないか確認し,必要なら再設置します.
- TEEによる心機能,弁機能,カニューレ位置,脱気の再評価を行う.
⏩【経過】
- なんとかコンバージョンせずに弁形成を終了することができました.これから人工心肺を離脱します.
🖥️【人工心肺離脱中のパラメータ】
- CPB流量: 1.0 L/min まで漸減 (目標離脱流量)
- ECG:自己心拍再開 (例: 洞調律),HR 90/分
- 動脈圧:65/40 mmHg(MAP 48 mmHg)
- 中心静脈圧 (CVP):18 mmHg
- 肺動脈圧 (PAP):48/30 mmHg(平均 36 mmHg)
- 混合静脈血酸素飽和度 (SvO₂) (PACから):55%
- 心係数 (CI) (PACから):1.8 L/min/m²
- TEE所見:左室収縮は術前よりやや改善 (EF 45〜50%).僧帽弁形成後の所見は良好.右室は著明に拡大し,収縮も高度に低下.心室中隔奇異運動(左室側への圧排)を認める.脱気は完了.
Q7. 現在の状況をどう判断し,どのように対応しますか?
- 各種パラメータから,右室不全を伴う低心拍出量症候群(LCOS)による離脱困難の状況と考えられます.
- まず,薬物療法による循環サポートを開始します.
- 強心薬としてドブタミンを開始し,必要に応じてミルリノンを追加または変更します.
- 肺血管抵抗を低下させる目的で,ミルリノンの使用や吸入NOの開始を考慮します. 必要に応じてプロスタグランジン製剤(PGI₂やPGE₁)の使用を検討します.
- 全身灌流圧を維持するため,ノルアドレナリンを併用します.
- 同時に,TEEガイド下に適切に前負荷を判断し,輸液・輸血を行います.
- これらの初期対応で改善が見られない場合は,IABP挿入や術後もVA-ECMOの導入・継続を外科医,臨床工学技士と協議します.
- 以上の対応により,循環は徐々に改善し,手術は終了しました.術後は挿管・鎮静下にICUに入室しました.
- 手術6時間後のICUでの身体所見・検査所見を示します.
🖥️【術後ICUでの所見】
- 血圧低下(85/50 mmHg)※ノルアドレナリン0.05μg/kg/分が開始されている.
- 肺動脈圧:42/26 mmHg(平均34 mmHg)
- 中心静脈圧:15 mmHg
- 混合静脈血酸素飽和度(SvO2):60%
- 右下肢の冷感,蒼白化,足背動脈触知不良
- 血液ガス:pH 7.29,PaO₂ 88 mmHg(FiO₂ 0.6),PaCO₂ 45 mmHg,BE -6.5,Lac 3.8 mmol/L
- 体温:36.2℃
- 凝固検査:PT-INR 1.7,APTT 48秒,Fib 190 mg/dL,血小板 9.0万/μL
- 右下肢ドップラー:大腿動脈血流低下
- 胸腔ドレーンからの出血増加(過去1時間で120 mL)
- 新規心電図変化:明らかなものはなし
- TEE:明らかな局所壁運動異常ないが,全体的に収縮が悪い,心嚢液少量,僧帽弁形成は良好
Q8. 術後ICUで認められた右下肢虚血と出血傾向に対する評価・対応について説明してください.
- ドレーン出血増加による出血性ショック(凝固異常もあり).左室収縮能低下による心原性ショック,右下肢所見から下肢虚血(術中に使用した大腿動脈カニュレーションによる血管損傷や血栓形成など)が複合しており,止血術や,血管外科による迅速な血管修復術や血栓除去術が検討されるため,直ちに心臓血管外科へ緊急コンサルトを行います.
- 循環維持:輸液・濃厚赤血球・FFP・血小板等の投与を開始し,循環作動薬を調整します.
- 緊急評価:緊急TEEによる再評価,凝固(TEG/ROTEM),下肢動脈エコー・ドップラー検査を行います.
- 緊急コンサルト:血管外科(下肢血行再建検討),心臓外科(再開胸止血検討)に直ちに連絡します.
- 多職種カンファレンス: 関係各科と情報共有し,下肢手術,再開胸の優先順位と治療方針を迅速に決定します.
Q9. 術後の状態および合併症発生について家族への説明を行ってください.
- 担当した麻酔科のさらりーまんです.お母様の手術は終了しましたが,術後にいくつかの合併症が生じているため,現在の状況についてご説明させていただきます.
- まず,お母様の僧帽弁形成手術自体はやや難易度が高かったものの無事に終了し,心臓の弁膜の修復は成功しました.術中の経食道心エコーでも弁の機能は良好であることを確認しています.
- しかし,現在ICUでの回復過程において,いくつかの問題が発生しています.
【現在の問題点】
- 現在の状況については以下の問題点が生じています.
- 心機能の低下: 手術後に心臓の働きがやや弱くなっており,血圧が安定しない状態です.これは心臓手術後にしばしば見られる状態で,現在は心臓を助ける薬剤を投与しています.もともとの心臓の機能があまりよくないので,慎重な管理が必要な状態です.
- 右足の血行不良: 手術で使用した右足の大きな血管(大腿動脈)に関連して,右足の血流が十分でない状態が確認されています.足の色が悪く,足の温度も低下しています.
- 出血:心臓の近くに入れているドレーンから出血が見られており,場合によっては手術で止血を行う必要があります.
【現在の対応について】
- これらの問題に対して,現在次のような対応を行っています:
- 循環器内科の先生と協力して,心機能を改善するための薬剤投与を行っています.
- 血管外科の先生に診察を依頼し,右足の血流を改善するための治療を検討しています.場合によっては手術が必要になる可能性があります.
- 出血傾向に対しては,凝固因子を含む輸血を行い,止血状態の改善を図っていますが,出血の程度によっては止血術が必要になります.
- また,全身状態を安定させるため,人工呼吸器による呼吸管理を継続しています.
【今後の見通しについて】
- 現在のところ,これらの合併症は手術後に起こりうる範囲内のものですが,注意深く対応が必要な状態です.次の24〜48時間が経過観察の重要な時期となります.
- 血管外科と循環器内科の先生方と協議した結果,足の血流改善のための処置を優先的に検討しています.この処置は比較的小さなものになる可能性が高いですが,詳細は血管外科の先生から改めてご説明があると思います.
- ご心配されることと思いますが,現在ICUチーム全体でお母様のケアに当たっています.状態に大きな変化があれば,すぐにご連絡いたします.
- 何かご質問はありますか?
- また,わからないことや心配なことがございましたら,いつでもお申し付けください.